2022年度 第1回定例研究会:隠喩としてのゲーム––––人生はゲームとして生きられるべきなのか?

来たる2022年4月17日、立命館大学ゲーム研究センターによる2022年度第1回定例研究会をオンラインにて実施いたします。発表者は、難波優輝(newQ/立命館大学衣笠総合研究機構 客員研究員)氏です。登録・参加料不要となっております。お誘い合わせの上、奮ってご参加のほど、お待ちしております。

発表タイトル
隠喩としてのゲーム––––人生はゲームとして生きられるべきなのか?

■発表者
難波優輝(newQ/立命館大学衣笠総合研究機構 客員研究員)

■日時
4月17日(日)16:00-17:30

■場所
オンライン(ZOOM)
https://ritsumei-ac-jp.zoom.us/j/98335012212
※お手数をおかけいたしますがZoom Bombing対策のため、ログイン時にお名前をフルネームにしていただくようお願い致します。

■概要

  本発表では、隠喩としてのゲームについて考える。中心的な問いは「人生をゲームとして捉えるのは、よい人生理解なのか?」である。
  私たちは、人生をゲームとしてのみならず、旅として、物語として、遊びとして、戦いとして、生活として捉える。これらは、ゲーム、旅、物語、遊び、戦い、生活といった無数の概念を隠喩的に使うことで、人生という別の概念を理解しようとする隠喩的営みである。さて、このどれもが人生を同等に正しく捉えられているのだろうか?
あるいは、このいずれかが隠喩的により正しいのだろうか? いずれかがよりよい人生の隠喩なのだろうか?
  「人生は神ゲー」「人生はクソゲー」といったように、人生をゲームに喩える言い方は日常生活や作品において流布している(cf. 架神恭介・至道流星『リアル人生ゲーム完全攻略本』筑摩書房、2017年。屋久ユウキ『弱キャラ友崎くん』講談社、2016年)。また、哲学研究のうちでは、「人生はゲームか?」を問うものもいくつかある(cf. 平尾昌宏『人生はゲームなのだろうか?』筑摩書房、2022年。川谷茂樹「〈人生〉がゲームであるという可能性について」『学園論集』2012年)。このように、人生をゲームという概念から考える営みは、一般的にも哲学研究上でもよくみられる。
  本発表では、一般的、哲学研究上を問わず、人々が人生をゲームに喩えることで何を行おうとしているのかを、ネルソン・グッドマンの世界制作論および隠喩論を手がかりに明確化する。
  まず、「人生はゲームか?」という問いは、人生という対象の本性を形而上学的に思索する試みとしてのみ捉えるよりも、人生をゲームという概念図式からどのように組織化し了解するのかをめぐる視点の問題であることが分かる。
のみならず、本発表では、人生をゲームとして理解することで、倫理的に、あるいは美的に、もっと広い意味で価値的に、私たちに何がもたらされるのかを問う。
  人生をゲームとしてみることは、人生の意味を変質させうるのではないか? 人生を偏った仕方で捉えることになるのではないか?
といった危惧が投げかけられる。発表者は完全にではないにせよ、こうした危惧に賛同する。人生をゲームという隠喩から理解することは、人生を他の隠喩から理解するのと同等に有益さと危害をもたらしうる。
  さらに、人生をゲームという隠喩から理解することは他の仕方での人生理解と衝突しうる。発表の後半では、こうした人生理解の衝突についても考える。それにより、これまで哲学において主題的には論じられてこなかったであろう、隠喩の倫理、あるいは、世界理解の価値論についても論じられる。